公益社団法人発明協会

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新幹線

イノベーションに至る経緯

(1)新幹線建設決定前史

 日本では戦前から東海道線において「弾丸列車計画」という時速200 km/hを目標とした鉄道敷設計画があった。そして、この計画に基づき、研究開発や用地取得などの取組が始められていた。しかし、当時の技術では時速200 km/hは達成不可能であったし、その後の戦況の悪化によって、同計画はとん挫していた。

 戦後、この計画はしばらくの間忘れられていた。一方、着実に鉄道技術の発展は進んでいった。

 1950年には、後に新幹線の開発を国鉄技師長としてリードすることとなる島秀雄(以下「島」と呼ぶ)の下で進められた80系電車(いわゆる「湘南電車」)が東海道線に投入され、東京~沼津間125kmを2時間半で走る記録を打ち立てていた。各車両が動力を分担する動力分散型の電車列車方式の16両編成であった。このような電車列車は、世界で初めてであったため、営業開始当初は火災などのトラブルもあったが、次第に解決され、動力分散式による長距離電車の経験とノウハウが蓄積されていった。

 1953年、新聞に国鉄鉄道技術研究所(以下「研究所」と呼ぶ)の車両研究室長三木忠直の「東京-大阪4時間半」構想が報道された5。かつて戦時中、急降下爆撃機「銀河」を設計した経歴を持つ三木は、戦争直後に研究所長の中原寿一の努力により採用された陸海軍での航空機開発の経験を持つ優れた研究者の一人であった。国鉄本社の中にはこのような問題は研究所の所掌を超えるものだとする意見もあったが、運輸省はこの構想に興味を示し、日本鉄道車両工業協会に委託して「超高速車両委員会」を設置した。これには研究所、国鉄工作局、鉄道車両メーカーが参加した。当初は電気機関車による牽引列車方式についても検討されたが、将来の発展可能性の議論が進むにつれ、動力分散方式の電車列車に意見が集約されていった。1954年9月の報告書は、同方式による7両編成、列車長100.9m、電動機出力110kw×8、定員224名で最高速度150km/hを開発目標とすることが謳われている。

 この報告書に注目したのが、東京-小田原間で国鉄と激しい乗客獲得競争を行い、新たな高速車両の開発を計画していた小田急電鉄(以下「小田急」と呼ぶ)であった。報告書が発表された翌月、小田急の担当取締役であった山本利三郎は研究所を訪れ、新たに小田急が開発するスーパーエキスプレス(SE)への研究所の指導・協力を要請した。研究所長の大塚誠之はこの要請を快諾し、これまでにない高速鉄道車両の開発が始められることとなった6

 この設計に当たっては、総重量を軽減することが最重要課題とされた。このため、構体は床・側・屋根の板構造を一体としたモノコック張殻構造が採用され、軽合金を用いて軽量化を図ることも検討されたが、軽合金については材料価格の面から断念され、鋼板を用いることになった7。台車についても軽量化が行われ、その横梁には航空機と同じように重量軽減孔を開けられた。これらにより構体の重量を従来型の3分の2近くまで抑えることに成功した。また、制動装置として我が国の鉄道車両としては初めてディスクブレーキが採用され、高速時に先頭車が浮き上がらないようにする方策として、排障装置を兼ねたスカートが開発された。この際導入された荷重試験、風洞試験によるデータの取得方法は、以後の国鉄車両の車体構造の設計に大きな影響を与えるものとなった。風洞試験による設計を行うことにより、湘南電車では0.64であった経常抵抗係数は、SE車では0.25まで減らすことに成功した8

 SE車は当時の世界最高水準を超える車両として完成したものであったが、カーブが多い小田急の路線では十分な最高速試験を行うことは困難であった。かつて鉄道省に籍を置いたことのある小田急の山本は、国鉄の路線を使った試験走行を提案した。試験走行は1957年9月に函南―沼津間で行われ、当時の狭軌鉄道としては世界最速の時速145km/hを記録した。この成功は動力分散方式の大きな可能性を裏付けるものとなった。試験結果は国鉄に提供され、小田急SE車の開発により得られた技術や設計手法が、その後の新幹線に引き継がれることとなる。

 同時期、国鉄でもこれまでの電気機関車を超えるスピードを持つ新型ビジネス特急の開発が始められていた。後に時速110㎞/hを記録するビジネス特急「こだま」型電車(20系電車)である。この車両には、後の新幹線に採用された様々な技術が適用されている(高速台車振動研究会で開発された台車技術、並行カルダン方式とたわみ継手による駆動方式9、高回転の軽量モーター、車両構造としての航空機にならったモノコック構造等)。さらに、交流電化のためのシリコン整流器、信号通信分野でのAF軌道回路、車内信号式自動列車制御装置などが開発された。こうした技術もまた新幹線に受け継がれ、更なる改良によりシステムに組み込まれることとなる10

 加えて、車内冷房装置、複層ガラス、浮床構造によって、快適性が大幅に向上した。

(2)新幹線建設の決定、閣議報告

 1950年代後半、高度成長期を迎えた日本経済では、太平洋ベルト地帯を中心としてヒト・もの・情報の往来を急増させ、鉄道については在来の東海道本線だけでは輸送量が限界に達することが危惧されるようになっていた。

 1955年に第四代国鉄総裁に就任した十河信二(以下「十河」と呼ぶ)は、広軌による新たな東海道本線の建設をめざしていた。しかし、国鉄内でも関係者の意見は必ずしもそれに集約されなかった。同年末、十河は元国鉄車両局長だった島を技師長として迎え、翌1956年本社内に島を委員長とする「東海道線増強調査会」(以下「調査会」と呼ぶ)を設置した。そこでは①将来の輸送量の検討、②道路・鉄道を含む総合的な交通量の現状把握、各交通機関の輸送力の現状、将来の暫定輸送量、③将来提供すべきサービスの程度、④輸送量を増強する方式、⑤動力・車両・保守などの諸方式等について検討することとした。調査会には常務理事、本社局長、副技師長、鉄道技術研究所長が委員として参加し、本社の関係課長が専門委員として加わった11

 1956年、東海道線の全線が電化された。調査会は同年5月検討を開始した。しかし、議論は白熱化した。当初から在来線の併用とすべきか新線の建設とすべきか、広軌と狭軌の選定いずれが良いかなどをめぐり意見が分かれたのである。8カ月にわたる議論が続き、関係者の間の意見は収斂する見込みが立たなかった。年の明けた1957年2月、委員長の島は第4回委員会において、広く世間の意見をも聞く必要を述べて調査会の終了を宣言せざるを得なかった。しかし、ここでの議論の集積は、国鉄内部での新幹線への課題の所在を明確にし、共有化させたという点で大きなステップとなった。

 新たな進展は、同年5月の国鉄鉄道技術研究所創立50周年の記念講演会によって生じるところとなった。この年篠原武司(以下「篠原」と呼ぶ)が研究所所長に就任していたが、彼は研究所に蓄積された高速鉄道技術に注目し、創立50周年を記念する事業として「超特急列車、東京-大阪間3時間運転の可能性」と題する講演会を開催することを提案したのである。

 この講演会は、既に輸送能力が限界状態になっていた東海道線について、従来の形式にとらわれない超高速鉄道を建設しようという篠原の構想に沿って、その技術上の可能性を広く世に知らしめようとするものであった。1957年5月に東京で開催された記念講演会で、冒頭、篠原は、研究所では最高時速250 km/hを目標として高速鉄道の研究を行っていること、新しい路線はこれまでの狭軌ではなく国際標準軌(広軌)とすべきであること、この条件を満たせば、技術的には東京-大阪間を3時間で結ぶことが可能であるとし、その実現の可否は国民の判断にかかっていると語った12、13

 講演会は大きな反響を呼び、いくつもの新聞がこれを好意的に紹介した。かねてから広軌高速鉄道の必要性を考えていた十河は、篠原に国鉄幹部を対象として改めて国鉄本社内で特別講演会を開催することを求めた。そして、講演を聞き、自らの考えに自信を深め、機は熟したと感じ、直ちにその実現に向けて動き出した14。1957年7月、十河は運輸大臣の宮沢胤男に広軌新線による東海道線の増強を訴える要望書を提出するとともに、国鉄本社内に「幹線調査室」を設置して後に新幹線総局長となる大石重成を室長に任命し、検討案の作成を開始させた。要望書を受けて8月には運輸省(当時)は「日本国有鉄道幹線調査会」を設置し、本格的検討が開始された。調査会は翌1958年7月に「東海道新幹線建設の必要性と具体的実施方策に関する答申」を運輸大臣に提出した。この答申により、広軌複線を採用し、超特急は東京-大阪3時間で走行するという新幹線のイメージが固まった。東海道新幹線の着工は、経済企画庁(当時)に設けられた「交通関係閣僚協議会」における検討を経て、その年の12月に交通関係閣僚協議会の決定事項として閣議に報告され、最終決定された。

 国鉄本社内の東海道新幹線建設についての動きを受けて、研究所ではそれまで各分野でばらばらに行われていた高速鉄道に関する研究を、東海道新幹線の建設という一つの目標に絞った総合的なプロジェクトとすることとし、既存の研究室組織の枠を超えた重点研究班へと編成替えされた15、16

(3)世銀融資の実現と完成まで

 新幹線建設には、当初から2000億円もの巨額の資金が必要とされた。その多くは外部からの融資に頼らざるを得なかった。国鉄は、当時の大蔵大臣であった佐藤栄作の助言を受けて、1959年に世界銀行に対し1億ドル(当時)の融資を申し入れた。融資にあたって、世界銀行は以下の条件を求めた。

  • 新発明の技術、試験的な技術などの、いわゆるエクスペリメンタルなものは融資対象にならないこと
  • 十分な経済性が見込めること
  • 外資がなぜ必要かということについて明確な説明がなされること。

 これらの条件をクリアするために国鉄は世界銀行の調査団を受け入れた。この際、世界銀行の中には「新幹線の建設がエクスペリメンタルものではないか」という懸念もあったといわれるが、基本的技術の多くはこの時点では開発されているものであることを説明し、この懸念を払拭した17。世界銀行からの8000万ドルの融資は1961年5月1日に決定した。この金額は、新幹線の建設見積額2000億円に対しては288億円(1ドル=360円換算)に過ぎなかったが、世界銀行として過去3番目に大きな額であり、このプロジェクトが国を挙げてのものであって、後戻りのできないことを示すものともなった。 

 1958年8月、航空写真測量が始まり、1959年4月20日の起工式により工事も本格化した。

 新幹線の建設計画は、1930年代の「弾丸列車計画」の時に調査・検討された路線案をベースとしていた。そのため、戦中に買収された土地や建設途中のトンネルなどが利用可能であった。東京―新大阪間515kmの線路用地は面積にして1080万㎡で、このうち220万㎡は戦前に買収が済んでいた。しかし、入手していた土地についても国鉄はその土地の耕作等を認めていたことから、補償問題が発生した。当初計画されていた鈴鹿山の下を走る長大トンネルは、地質の問題もあり、5年以内に完成させることが困難として見送られ、関ヶ原ルートに変更された。

 この中で、弾丸列車計画に合わせて建設が開始されていた、新丹那トンネル(7959m)は戦況悪化で工事が中断していたが、再開を望む国鉄職員によって保守が継続されていた。

 路線の工事とともに、車両や保安システムの開発・製造も行われた。車両については、レールに働く力、風圧・空気抵抗、パンタグラフ・台車の構造の基礎研究が研究所で行われ、これに基づいて設計が行われた。1962年4月には汽車製造・日本車両製の2両編成と、日立製作所・川崎重工業・近畿車両製の4編成の試作車が完成し、6月25日から工事が最も早く進んだ鴨宮-大磯間のモデル線での試運転が開始された。

 1968年3月30日のモデル線での高速走行テストでは最高時速256km/hを記録し、その高速走行性能が確認された。

 量産車は第1次分180両と、第2次分180両に分けて発注された。気密試験、騒音試験、すれ違い試験、一般性能試験、ATC試験が行われ、所定の性能が確認されたことから、6月からは米原-大阪間で200km/hの速度試験も開始された。そして、開業の1月前が近づいた8月25日からは東京-新大阪間を4時間で結ぶ全線総合試験を開始した。

 東海道新幹線の開業式は、東京オリンピックを目前に控えた1964年10月1日に東京駅9番ホームで行われた。

 日本鉄道建設公団発足とともに副総裁(後に総裁)に就任した篠原は、土木学会会長として1967年に「全国高速鉄道網構築構想」を発表した。この構想の一部は、1969年の新全国総合開発計画により実現した。東京と大阪を結ぶ515kmで始まった新幹線は、2014年7月現在、北は青森市から南は鹿児島市までをつなぐ日本の大動脈となった。現在、1年間の新幹線利用者数は2億7000万人(定期を除く)を超え、定期利用者も4000万人を数えている(表1「新幹線利用者数推移」参照)。

 新幹線の成功は、海外における新たな都市間高速鉄道の整備にも火を付けるものとなった。新幹線の着工直後から開発が行われたフランス国鉄(SNCF)最初のTGV(Train à Grande Vitesse)は1981年にパリ-リヨン間で運行を開始した。またドイツ国鉄(DB)のICE(Intercity-Express)は1991年から営業運転を開始した。国内で蓄積された技術やノウハウは海外でも高く評価され、1980年には米国のアムトラックに技術協力が行われた。さらに、台湾、中国、英国への輸出が行われ、ベトナムやインド、米国カリフォルニア州等への輸出も検討されている。

 これらは上記の技術をベースとした安全性、定時性などの実績が、国際競争力に大きく貢献したものである。


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