高度経済成長期
積層セラミックコンデンサ
イノベーションに至る経緯
(1)セラミックコンデンサーの誕生と復興
コンデンサーの歴史は18世紀までさかのぼる。1745年、ポメラニアのEwald Georg von Kleistが、翌1756年にはオランダ ライデン大学のPieter van Musschenbroekがライデン瓶(Leyden Jar)を発表し、これがコンデンサーの起源とされる。
セラミックコンデンサーについては、1933年にその原型が発明された。1930年代になると、内部電極に白金を使用したセラミックコンデンサーが、無線通信機やレーダー等、主に軍事用に生産され始めた。我が国でも1939年頃から河端製作所、村田製作所、太陽誘電(当時、佐藤航空無線)等が生産を開始し、米国ではエリー(Erie)、セントララブ(Centralab)等がこの事業を開始した。以降、終戦を迎えるまで、日米のセラミックコンデンサーの技術力・経営体力には大きな差がなかったといわれている。
第二次世界大戦後、軍需用の生産が止められた日本のセラミックコンデンサー産業には技術力及び事業環境において米国に大きく差を付けられるものとなった。米国では1950年代後半にRCA社を中心として誘電体を多積層化する技術の開発が行われ、主に産業用・軍事用電子機器の表面実装部品として積層セラミックコンデンサーの開発が行われていた。
一方、日本では1945年11月に連合国軍総司令部(GHQ)が300万台にまで減少した我が国のラジオ受信機の国民への普及を図るため、家庭用ラジオ受信機、修理部品、真空管の生産拡大を日本政府に指令した4。これを受けてラジオ生産の機運が一気に高まったが、そのために解決すべき課題の一つがコンデンサーの品質不良の問題であった5。このため1947年に産業界による「電解蓄電器研究会」が創設され、コンデンサーの品質の向上に取り組むとともに、戦争中に情報が途絶えていた海外の技術進歩の状況について情報収集し、これを翻訳して提供する活動が開始された6。国内のセラミックコンデンサーメーカーは、米軍規格(MIL-SPECS)に準拠した設計・仕様に取り組み、積極的にこれをクリアした製品を市場に投入した。米軍規格は国際標準の元となったものであり、これをクリアしたコンデンサーは、民需部門での信頼性を高めただけでなく、米軍による調達も視野に入れることができたのである。これにより、我が国のセラミックコンデンサーの生産量は急増し、1960年頃までには海外市場で競争できるレベルにまで技術も向上した。
(2)積層セラミックコンデンサーの実用化
コンデンサー産業界に変化が生じたのは1970年代である。その契機になったのは、それまでの真空管に代わってトランジスタが導入され、電子機器の動作電圧並びに消費電力が劇的に低減されたこと、ICの導入で実装形態が表面実装技術(以下、SMTと呼ぶ〈SMT:Surface Mount Technology〉)へ移行したことである。それまでの高い電圧に対応するために要していた誘電体の厚みは積層セラミックコンデンサー(以下、MLCCと呼ぶ〈MLCC:Multi-layer Ceramic Capacitors〉)で対応可能なレベルになり、SMT対応と併せて、急激にMLCCの需要が高まった。
このMLCCの技術で先行していたのは米国であり、1960年代前半に量産は既に開始されていた。しかし当時、MLCCの生産性は低くその単価は材料品の貴金属使用などから高価であり、また実装成功確率も低かったことから、市場規模が大きく安価な民生市場への展開は実現できなかった。また当時の米国では、半導体技術の発展によりコンデンサー等の受動部品需要は大きく衰退すると信じられており、一般電子部品への開発資源は縮小されていたことと、かつ部品メーカーと最終商品メーカーとの技術分業が明確であったことから両者のすり合わせや協業といったシステムが展開されることはなかった。
一方、日本では、部品メーカーと家電メーカーの企業間連携とものづくりの文化から、両者の共同による製品化への技術開発が広範に展開されることになった。家電メーカーとしては、石油危機後の課題であった製品の軽薄短小化を差別化の手段とし、その実現には民生市場に対応できる表面実装の信頼性と生産性の向上、そして、MLCCそのものの生産性向上によるコスト低減が絶対条件であった。日本のMLCCメーカーは、これらに対応するために基軸技術を有するメーカー、家電メーカーと協働してSMTの研究開発を行い、また同時により良い材料とプロセス設計の技術開発に注力したのである。
実装は相互の技術が交錯する領域にあり、信頼性が高く安定した表面実装を実現するには、実装機から加わる衝撃や応力、それに対応する部品の構造設計や材質の選定、使用するハンダの選定やランドの設計等の情報を相互で共有、精査し改善の可能性をあらゆる技術から多面的に検討する必要があった。このために松下電器やソニーが主導し、松下電子部品、TDK、村田製作所など国内の電子部品メーカーや実装機メーカーと、表面実装技術開発のために協業が開始された。
パナソニックとTDKの積層セラミックコンデンサーの共同実装技術開発は1972年から始まり、少し遅れて1970年代半ばから村田製作所とパナソニック、ソニーとの共同開発も開始された。パナソニックとTDKとの協力のもとで1977年に発売された超薄型携帯ラジオ「ペッパーラジオ」は、米国から導入したパラジウム積層セラミックコンデンサー技術をもとに、実装プロセスや実装後に起こる不具合の解決を進め、外部不良の割合を低く抑え、品質の安定化を図り、歩留まりを高めたことにより、民生用として初めて積層セラミックコンデンサーの標準搭載に成功した。そして、この製品の大ヒットにより次々とラジオ以外の電気製品へのMLCCの搭載が進むことになった。
パナソニック、ソニーと村田製作所は、その共同開発によって、1978 年には積層セラミックコンデンサーの量産体制を確立した。ここではテーピング方式という新たな包装形態が開発され、生産性の向上に資するとともに他社にも普及するところとなった。
(3)生産の拡大と世界市場の制覇
米国で実用化された当初の積層セラミックコンデンサーは、セラミック誘電体と内部電極金属を一体焼成する際に生じる内部欠陥や電気的短絡などにより、その生産性が低く、また内部電極として高価な貴金属のパラジウム(Pd)が使用されている結果コストが高いという課題が存在した。
このため、1960年 英国Plessey社のJ. M. Herbertが発表した内部電極にFe、Co、Ni等の卑金属を用いたBaTiO3系高誘電率セラミックに関する特許と論文に基づき、卑金属のニッケルを内部電極として用いることが検討されていた。しかし、ニッケルを用いた場合、内部電極のニッケルと誘電材料のチタン酸バリウムは、焼結するには相性が悪く、ニッケルは空気中で焼成すると酸化してしまい、電極の役割を果たさなくなるという欠点があった。一方で、チタン酸バリウムについては、水素気流中で焼結するとチタン酸バリウムが還元され、酸素が解離して特性が悪化してしまうという事態が発生した。このため、チタン酸バリウムに耐還元性を付与し、水素気流中でニッケルとともに焼結しても、チタン酸バリウムが還元されないように材料特性を改良することが求められていた7。
我が国では、1974年から村田製作所が耐還元性誘電体セラミックの基礎研究に着手していた。その取り組みにおいて BaTiO3のBaの一部をSr、Ca、Mgで置換し、その構成比を適正に選択した組成では還元雰囲気中で焼成しても高い絶縁抵抗と誘電率を確保できることを見いだした。この成果をもとに1982年に村田製作所は、電極にニッケルを使用した製品の生産を開始した。更に1984年には太陽誘電がチップ型のニッケル製品を発売し、国内においても少しずつニッケル製品の市場展開が始まった。しかしながら、寿命に関してはなお課題が多く、その利用は一部家電などの市場に限られていた8。
一方、TDKは他社に比してNi電極への取り組みが遅れていた。このため1980年代初頭、開発研究所セラミック研究部にニッケル内部電極の開発チームを設置した。開発チームは、ニッケル製品の大容量化に向けた取り組みを進めた。しかし、当時、同じ厚みの誘電体を用いると、パラジウムが3000年の寿命をもつのに対し、ニッケルは1年程度しかもたなかった。そこで「寿命のメカニズムの解明」が始まった9。
ニッケル、銀、パラジウム、リラクサー材料の次世代技術のなかで、研究チームが最も可能性が高いと考えたのはリラクサー10材料で、チタン酸バリウムよりも誘電率が高く、約2倍の誘電率をもっていた。誘電体をリラクサー材料とし、銀パラジウムや銅で電極を形成すれば、一層の大容量化が可能と期待された。これに比べるとニッケルで信頼性の高い内部電極を作ることは非常に困難なものだとも考えられていた。
研究を主導した野村武史は、もともとフェライトの技術者であり、誘電体材料そのものの組成に関しては専門家ではなかった。そのため、これまでの枠内にとらわれず、ニッケルを使用するにしても幅広い試みを行い、誘電材料の専門家による試行錯誤のプロセスを大幅に短縮した方法で開発を進めていった。リラクサー材料などと並行して進めたニッケル電極の開発では、まず、「焼き方」を変えることによりひとつの解決法が見いだされた。最適な水素濃度を確かめるための実験を行うと、水素濃度をやや高めにするほうが寿命を長くできるという結果を得ることができた。更に、もう一度水素濃度を下げて、一段低い温度で焼くと更に寿命を延ばせることを発見し、寿命を従来の10倍に延ばすことが可能となった。
次に発見したのは「材料」を変えることによるものであった。研究チームはチタン酸バリウムの特性を改良するため、周期律表の物質を次々と添加物として評価するという手法を採り、希土類元素のイットリウムを添加したときに寿命を更に10倍以上延ばせることを発見した。
これらの成果により、ニッケル製品の寿命は合計で100倍以上に延び、パラジウムと同等の水準となった。開発の成果は1989年に報告書としてまとめられ、量産化への作業が本格化した。これにより、1992年以降、様々なセラミックコンデンサー製品のニッケル化が進められることとなった。
それまで困難とされてきたNi電極MLCCが市場で実績を得て以降、その差別化と高機
能化の開発は材料だけでなく、プロセス面の比重が高まった。1990年代初頭、2.0mm×1.25mm×1.25mmサイズX5R特性1μFが商品化された。誘電体の設計厚みは約5μmであったが、これ以降小型大容量化のための誘電体厚み、内部電極の薄層化が急速に進展した。
その結果、図111に示すように、誘電体素子は1997年には3μm、2000年2μm、2003年1μmと変遷し、そして2009年には0.7μmと遂に1μm以下の領域に突入した。
こうして、21世紀に入ると、MLCCの使用は、スマートフォンやタブレット端末へと拡大し、現在では、スマートフォンには1000個/台を超える積層セラミックコンデンサーが搭載されるなど、私たちの生活にあふれるあらゆる電子機器の小型化と高機能化に不可欠な存在となっている。その世界生産数量は実に2兆5000億個/年を超えると規模となっているといわれる。携帯電話等に用いられる積層セラミックコンデンサー市場は2010年に329億円に達したが、その69.3%が日系企業によるものであった12。
かつては成熟商品化したとみられたコンデンサーは、MLCCの登場によって先端的な技術を体した電気製品において不可欠の部品となった。それが開発された背景には日本における部品メーカーと顧客企業との協業という他国にはないシステムの存在があり、また、そのシステムの絶えざる進化の歴史があった。標準部品における協業というものの大きな可能性を示した点において優れたイノベーションである。
図 1 MLCC 単位体積当たりの静電容量と誘電体厚の変遷
図2 セラミックコンデンサーの国内生産数量推移
注)単位は1000個
資料:経済産業省「機械統計年報」