高度経済成長期
コシヒカリ
イノベーションに至る経緯
稲の品種改良は、極めて長い年月と多くの関係者の努力の積み重ねにより行われる。コシヒカリの誕生にも、様々な地域の様々な品種の組合せ、学問的知見の利用、多品種との比較、時代のニーズさらには運命的な災害からの生存などを経て広まってきた。以下はその歴史である。
(1)昭和20年代までの主要水稲品種
コシヒカリの先祖種となる亀の尾と森多早生は、前者が阿部亀治により育成され、後者は森屋多郎左エ門が選抜したものである。亀の尾は1893年の冷害に耐えて稔った穂を抜き、それから育成1したものであり、森多早生は在来種の東郷2号から選抜したものである。
明治以前の水稲品種は、一つの遺伝子座で10-6程度の頻度で起きる突然変異や、1%以下の確率で発生する自然交配によって生じた在来種から農民が選抜してきた。明治以降になると文書記録も残っていて、選抜した篤農家が特定できる。上記の阿部亀治や森屋多郎左エ門がその例である。
明治末期には、北海道では赤毛、東北では亀の尾、北陸では大場や石白、関東・東山では愛国や関取、中部・近畿では神力や竹成、中国では神力や雄町、四国では神力、九州では神力や雄町が主な品種であった。
20世紀に入ると欧米で遺伝学が急速に発達した。農商務省の加藤茂苞技官は、1900年のメンデルの法則の再発見をもとに、1904年に世界で初めて稲の人工交配に成功した。以後、稲育種の中心的育種手法としてこれが定着している。また、1903年に公表されたヨハンセンの純系説にもとづき、遺伝変異が蓄積している在来種からの選抜も開始され、亀の尾4号、陸羽20号(愛国から選抜)など多数の品種が選抜された。
コシヒカリの祖父種に当たる交配育種の第1号品種は、上記の陸羽20号と亀の尾4号の後代から選抜された陸羽132号であった。陸羽132号は、その後長い期間、亀の尾に代わり東北地方の主力品種となった。1927年に農林省は全国を9生態地区に分けて稲の育種を強化した。この育種体制で開発された品種には農林番号を付すことになった。記念すべき水稲農林1号は、陸羽132号と森多早生の交配から生まれた。これがコシヒカリの父種になる。なお、農林番号は数が増えると覚えにくいということで、農林52号から愛称を同時に付けることとなった。以後、道府県が独自に実施した水稲育種と併せて多数の新品種が産み出されて今日に至っている。
第二次大戦後は米の増産時代で、採用される品種は良質・良食味よりも安定多収性が優先された。コシヒカリの育成者の石墨慶一郎によれば、北陸地方では「1940年前後を頂点として、農林1号・銀坊主中生・銀坊主を主幹とする北陸固有の品種作付け構成が形成され、それが、1950年まで継続している。その後しばらくは戦後の食糧危機を乗り切るため、適地適品種の採択によって適応性の狭い品種の乱立が続いた」2。この様子は全国に共通であった。
(2)コシヒカリの育成経過
コシヒカリは農林22号を母親とし、農林1号を父親とする交配から生まれた。農林22号は1943年に兵庫県農業試験場で育成された品種で、少肥、多収、良品質でいもち病抵抗性が高く、1945年には1万5000ha近くが栽培されていた。農林22号は数多くの品種の親となった品種で、農林番号品種では21品種、県の育成では十数品種を生んでいる。
コシヒカリの交配と第2世代までの選抜は農林省長岡実験所(新潟県農業試験場内)で行われた。交配は1944年であったが、1945年は戦後の人手不足で栽培されず、第1世代の養成は1946年に、翌年の第2世代は3000個体が栽培され、65個体が選抜された。このうちの20個体(系統)が翌1947年に福井県農業試験場内に設置された農林省福井農事改良所に送られた。同改良所は同年農林省の育種体制の改変にともない設置されたものである。通常交配された種は2世代、3世代では様々な違いの株が生じる。それを同じ性質に整えるには通常10年の歳月を要する。コシヒカリの選抜は、福井農業試験場で1948年から開始され、8年間、8世代にわたる選抜を通じて育種された。そのため、第2から第8世代まで、近隣の長岡実験所と島根県農業試験場内の出雲実験所から材料が福井に送られたのである3。
図1.コシヒカリの系譜
櫛渕欽也監「日本の稲育種」農業技術協会 (1992年)4
1952年、第2世代の中手系統(早稲と晩稲との間にあるもの)で育種されてきたものの第7世代に、越南17号の地方番号が付され、同時に全国試験が開始された。1956年に新潟県と千葉県がこれを奨励品種(農家に推薦する品種)に採用し、コシヒカリと命名された。なお、農林番号は切りの良い100号である。
コシヒカリを育成した石墨はこの交配組合せの上記20系統からコシヒカリ以外にも越南14号(後のホウネンワセ)を選抜しているし、東北農業試験場に再送付された材料からはハツミノリとヤマセニシキが生まれている。また、新潟県農業試験場に残された系統からは越路早生が育成された。いずれも大物品種であった。これは、交配組合せが良かったことと、第2世代での個体選抜が的確だったことを物語る。石墨が育成したホウネンワセは1962年から1966年まで5年間全国一の品種だった。石墨はホウネンワセ(越南14号)の育成について「農林22号と農林1号の組合せから農林1号のもつ早生・多収・良質の長所を受け継ぎながら、いもち病に強い安定多収の越南14号を育成したときの喜びは今も忘れられない」と回顧している5。
また、「一方、後にコシヒカリとなった系統は、雑種第三世代で出穂期・草丈・草型が揃い、早くから実用的に固定していたが、草丈が長くて倒れ易く、いもち病に弱い大きな欠点を持っていたので、捨てようかと迷いながら、できるだけ短い系統を選んできた。もしも安定多収の越南14号の育成に浮かれていたら、捨てていたかも知れない。熟色と米質のきれいなことに引かれてもう1年検討することにしたが、この熟期でめぼしいものが無かったこともあって、翌28年に越南17号の系統を付けた」と記している6。
なお、長岡実験所から送られた材料は1948年6月に田植えされたが、6月28日に襲った福井地震で水路が破壊され、その後の空梅雨で多くは枯れてしまった。しかし、農林22号/農林1号の組合せ系統は強湿田に田植えされたので生き残った。コシヒカリは運の良い品種でもある。
(3)コシヒカリの普及面積の拡大
末尾に掲載した統計表のとおり、コシヒカリの作付面積は順調に伸び、早くも1963年にはホウネンワセに次ぐ全国2位の品種となった。その後も上位品種であり続けたが、日本晴という大物品種に阻まれ、なかなか1位にはなれなかった。しかし、食生活が豊かになって米の消費量が減るとともに消費者は良食味米を求めるようになり、コシヒカリの作付面積が急速に拡大を始めた。表1に年代別の作付上位10品種を示した。コシヒカリは1979年から2013年まで35年間にわたり作付面積第1位を続けている。
表1 年代別作付面積上位10品種