公益社団法人発明協会

高度経済成長期

自動式電気炊飯器

イノベーションに至る経緯

(1) どこがイノベーションなのか

 電気炊飯のアイディア自体は、古くから存在していた。例えば、大正末期には既に、電熱線を“かまど”や“おひつ”の底に封入した初期型の電気釜が発売されていることが記録されている2。また、大日本帝国陸軍の資料によれば、1930年代に配備された九七式炊事自動車には、「炊飯櫃」という原始的な電気炊飯器が装備されていた3

 しかし、これらの初期型の電気炊飯器は、あくまで火の代わりに電気を熱源としてコメを炊こうと試みたものに過ぎず、使用者はコメの焦げ付きや水分過多 を防ぐために、常に炊飯器の隣で様子を見ていなければならなかった。戦後間もない時期には、木のお櫃にアルミ電極を貼り合わせた電気炊飯器の試作品がつくられたが、水加減や米の種類によって芯があったり、お粥のようになったりするなど、安定的な炊飯を実現することはできなかった4

 電気炊飯器の一般家庭への普及を決定付けた金字塔ともいえる製品が、1955年に東芝から発売された自動式電気炊飯器ER-4である。自動式電気炊飯器ER-4は、その名のとおり、どのような温度・湿度の下でも、規定量のコメと水を投入してスイッチを押しさえすれば、炊飯器の隣で様子を見ていなくても、自動で美味しいコメを炊き上げてくれるという製品であった。ここでER-4が真に革新的であったのは、「自動式」であるという点であり、「自動式」の実現によって、電気炊飯器はその普及を大いに早めることとなった。以下では、自動式電気炊飯器ER-4が発売に至るまでの経緯を説明する。

(2) 自動式電気炊飯器ER-4の開発

 東芝で新製品開発リストに「電気釜」が挙げられたのは、1950年のことである。当時、電気炊飯器の開発には先行していた競合他社がいくつかあったものの、失敗を重ねており、電気炊飯器は技術的にも実現性が低いものと思われていた。東芝社内でも、電気炊飯器の開発スタートを躊躇する声は根強かった。営業部からの提案を受けて、ようやく開発の許可が下りたものの、技術開発自体は東芝の関連会社である光伸社に委ねられることになった。

 光伸社は、1934年、社長の三並義忠(以下「三並」と呼ぶ)によって、精密測定機製造の企業として設立された。東芝から電気炊飯器開発の提案があった時、三並は、家電製品の開発ノウハウを持っていなかった。しかし、電気炊飯器開発の提唱者であった家電営業部門の山田正吾(以下「山田」と呼ぶ)の説明を受け、これを苦境脱出のチャンスだと信じた。こうして、1953年、三並は、自動式電気炊飯器の開発をスタートさせた。その後3年間に及ぶ研究開発は困難をきわめたものであった。この間の苦心・苦闘の物語はNHKの人気番組“プロジェクトX”に採り上げられ、2001年2月27日に放送された。

 開発の過程では一家総出で実験に当たり、様々なデータを収集し、様々な問題に直面しつつも遂に1955年に開発に成功した。

 開発の焦点はまず微妙な火加減の調整であった。それまでのかまどによる炊飯は、主婦の経験に基づく勘を頼りにした暗黙知そのものであり、こうした主婦の暗黙知を原理的に解明し、電気による制御を実現しなければならなかった。

 実験を通じて三並は、美味しいコメを炊くためには、強火で一定の時間(20分)炊き上げるのがうまいご飯の炊き方だということを解明した。それはX線で結晶構造を示す生澱粉(β澱粉)に対し、加熱により結晶構造を分解した「のり状(糊化)澱粉」をα澱粉と呼ぶが、澱粉は消化しにくいβ澱粉を、消化吸収のよいα化することがポイントであり、98℃位の温度を20分間ほど続けると、釜全体の米がα澱粉化し美味しく炊ける、というものであった。

 次の課題は、この温度変化をいかに自動的に実現するかであった。三並は外釜にコップ一杯(約20分で蒸発する量)の水を入れ、それが蒸発した時、釜の温度は100℃以上になり、それをバイメタル式のサーモスタットが検知してスイッチを切ることを東芝の提案により着想した。バイメタルは、熱膨張率が異なる2枚の金属板を貼り合わせたものであり、「温度の変化によって曲がり方が変化する」という性質を利用して、スイッチを切ることができるものである。開発当時のバイメタルの精度は現在よりも低く、狙ったタイミングでスイッチを切り替えるためには、繊細な温度調整が必要であった。三並は実験を繰り返したが、こうした微妙な温度調整は極めて難しく、しばしば釜の接触面にコメの焦げ付きを生じさせてしまった。試行錯誤の末、三並は上記のように「二重構造鍋」にバイメタルを組み込む工夫を実現して、この問題を乗り切った。

 最後の試練は、どのような気候環境の下でも、美味しいコメを炊くことのできる、品質の安定性であった。つまり最後の蓄熱の制御である。外気温が低い環境で炊飯を行うと、何度試みても釜の熱が逃げて保温できなかった。三並は、再び試行錯誤を重ね、現行の二重構造から、三重構造へと変更を加えた「三重釜間接炊き」の機構を編み出した。「三重釜間接炊き」方式の発明によって、自動式電気炊飯器は、四季折々の様々な気候環境においても、安定した品質のコメを炊き上げることが可能となった。

 こうして、1955年、自動式電気炊飯器ER-4は、東芝から発売された。東芝は山田をリーダーに販売に取り組み、1955年12月10日、完成した700個の販売を始めた。当初は余りに新奇的な製品であったため、家電販売店は半信半疑でなかなか乗ってこなかった。そこで既存ルート以外の電力会社の販売網などを開拓して、山田自ら全国の農村で実演販売をしてからは、爆発的に売れるようになった。その後、最高月産20万台を販売し、4年後には日本の全家庭の約半数にまで普及するところとなった。

発売当初の広告と売り場の模様

発売当初の広告と売り場の模様

画像提供:東芝

(3) その後の製品革新

 東芝の自動式電気炊飯器ER-4の成功を受けて、家電メーカー各社もすぐさま追随した。1956年には、松下電器産業(現 パナソニック)が、内釜を直接熱板の上に乗せて加熱する「直接炊き」方式の自動式電気炊飯器を製品化している5。さらに松下電器産業は1959年から香港での販売を開始し、現地のニーズに合わせた炊飯器を開発し大ヒット商品となった。同社は2013年現在までに全世界で1億2500万台の販売実績を挙げている。

 家電メーカー各社から自動式電気炊飯器が相次いで発売されたことで、電気炊飯器は急速に日本家庭に浸透していった。日本家庭における1960年の電気炊飯器の保有率は25%を超えた。

 1961年には「タイムスイッチ付電気釜」が登場し、間もなく業界標準となった。これは、就寝前にタイマーをセットしておけば、翌朝に炊きたてのコメが食べられるというものであった。1960年代後半には、内釜のフッ素加工によって手入れを容易にした製品なども登場しており、1960年代を通じて、電気炊飯器はより利便性の高いものへと進化していたことが分かる。1969年度における電気炊飯器の保有率は55.2%であるが、後から登場したガス炊飯器を合わせると98.1%となり、100%近くまで普及している6

 また、1970年には象印マホービンが、炊き上がったコメの保温機能を備えた電子ジャーを発売した。この電子ジャーは、炊き上がったコメを移し替えて温める保温専用の容器であった。朝炊いたコメを夜まで温かく美味しく食べることができる利便性は市場に歓迎をもって受け止められ、電子ジャーは大ヒットを記録した。さらに1972年には、電気釜と電子ジャーを一体に組み込んだ『電子ジャー炊飯器』が、象印マホービンから発売されており、炊き上がったコメを移し替える手間もなくなった7

 1980年代後半以降には、IH(電磁誘導加熱)技術を用いて、マイコンを用いて内釜自体を発熱させる「IH炊飯器」が登場した。従来よりも高火力での炊き上げが可能になったことに加え、設定次第では加熱をより細かく制御できるようになり、竈で炊いたご飯にも劣らない品質で炊飯することが可能となった。特に、中国製の安価な炊飯器が伸長してきた1990年代以降は、日本製の電気炊飯器は、より竈炊きに近いおいしさを追及した高付加価値機種の展開を強めている。

 以上見てきたように、1955年に自動式電気炊飯器ER-4が発売されて以降、タイムスイッチ機能や保温機能の搭載など、電気炊飯器はより一層使いやすいものへと進化し、主婦の生活改善に貢献してきたのである。


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