公益社団法人発明協会

高度経済成長期

スーパーカブ

イノベーションに至る経緯

(1)スーパーカブの原点 -カブF型-

 スーパーカブの原点となっているのは、ホンダが1952年から1958年まで生産した自転車用補助エンジンのカブF型である。ちなみに、カブ(cub)は英語で熊やライオンなど猛獣の子を意味する。カブF型は2ストローク約50cc最高出力1馬力で、当時としては珍しくカラフルなデザインが施されていた。白く塗られた燃料タンクと鮮やかな赤いエンジン部からなり、「白いタンクに赤いエンヂン」が宣伝のキャッチフレーズだった。

 販売を好調に伸ばしたカブF型であったが、類似モデルを開発したライバルメーカーが台頭し始めた。また、自転車補助エンジンに対する不満が募るようになり、次第に販売不振に陥るようになった。通常の自転車に補助エンジンを取り付けるという構造上、エンジンの振動の影響で各パーツの強度が不足し、故障を起こしてしまうことは避けられなかった。

 戦後の経済復興が進むにつれて、国民の所得も増え、安価な補助エンジン付き自転車ではなく、故障の少ない高性能なオートバイに対するニーズが強まっていた。こうしたニーズ変化への対応のため、カブF型に代わる新しいモデルの開発が進められることとなった。

(2)スーパーカブの開発と日本での成功

 社長(当時)であった本田宗一郎(以下「本田」と呼ぶ)は、当時流行していた125ccから250ccクラスのスクーター型の新製品を検討していた。しかし、専務(当時)の藤沢武夫(以下「藤沢」と呼ぶ)が、本田に提案したのは、誰もが肩肘張らずに乗れ、これまでにない需要が生まれるモペット型の50cc小型二輪車であった。モペットとは、モーターとペットを合わせた和製造語であり、小型のオートバイのことを指す3

 本田と藤沢は、新たなモデルの開発に当たり、欧州で普及している様々なオートバイを見て、構想をまとめることにした。二人は、1956年10月に欧州バイクモーター工業界調査団に参加した。往路の飛行機の中で、藤沢は本田に対し、小型車を開発することの意義を熱心に説いた。欧州各地を視察していくうちに本田は、藤沢が提案している小型車の開発に対する興味を強め、新製品のイメージを固めた。

 帰国後、役員会が開かれ、本田と藤沢から新製品の開発指示がなされた。日本の道路状況や市場でのホンダの4ストロークエンジンの評判などを考慮し、高性能な4ストローク50ccエンジンを搭載した小型オートバイを作り出すことに挑戦することとなった。

 スーパーカブは、本田が顧客の立場になりきって作りあげた製品であるといわれている。本田はテスト走行の時、自らぬかるんだ道路を走って、泥跳ねのかかり具合までチェックをした4

 顧客にとっての使い勝手の良さを優先させたため、エンジンやクラッチ、その他各部品は、それまでの常識を打ち破って開発を進めた。

 こうして開発されたホンダの新製品は、「スーパーカブC100」という名称で1958年8月に発売されることになった。値段は5万5000円に設定された。これは、性能の劣る他社の2ストロークエンジンのオートバイと同じ価格帯であった。

 発売に先立つ1957年の年末に、「C100」のモックアップを囲んで、本田と藤沢はこれから発売するスーパーカブについて、主要メンバーと打合せをした。本田が「専務、どれくらい売るんだ?」と聞いたところ、藤沢は「まあ月に3万台だよ」と答えたという。その数字は、最も生産していた車種であるドリーム号と比べても5倍以上の数字であったため、同席していた開発者は驚いた。しかしながら、1958年こそ年間生産は約2万4000台だったものの、1959年には約16万7000台へと増加、1960年には約56万4000台に達し、藤沢の予言は現実のものとなった5

 スーパーカブの成功は、日本のオートバイ市場に大きな影響を与えた。スーパーカブ発売当時に30社程度あったオートバイメーカーは、5年で10社程度にまで減った。

(3)米国市場での成功

 日本での成功を基礎として、ホンダはスーパーカブの世界展開を目指した。メインターゲットとしたのは米国である。1959年6月に米国における販売会社、アメリカン・ホンダ・モーターが設立された。当時年間6万台販売されていた米国のオートバイ市場は、ハーレーダビッドソンなど500ccクラス以上の大排気量車からなる市場であった。日本の10分の1程度の市場規模で、オートバイ業界自体も積極的に市場規模拡大の努力をしていなかった。こうした状況の中で始められたアメリカン・ホンダ・モーターの販売活動は、当初困難を極めた。会社設立当初には、月間1000台の販売目標を立てていたが、1959年の年末までに僅か170台余りしか販売できなかった。ホンダが販売の主力製品とした50ccのスーパーカブ、125ccのベンリイ号、250cc、300ccのドリーム号は、大排気量車に慣れた米国では、容易に受け入れられなかったのである。それに加えて、オートバイは、レジャー愛好家やレースマニアなど、一部の限られた人たちの乗り物であるという認識を払拭するに至らなかった6

 アメリカン・ホンダ・モーターは、米国の一般の人たちにオートバイを普及させるために、イメージチェンジを行う必要があった。オートバイが一般市民の乗り物であるというイメージを確立するために、大規模なキャンペーンを展開した。従来のオートバイの宣伝は、業界紙を使った広告によるものが一般的であった。しかし、そのような広告では一般の人の目に触れることはない。そのため、アメリカン・ホンダ・モーターは、「You meet the nicest people on a Honda」のキャッチフレーズとスーパーカブに乗る様々な人たちのカラフルなイラストによる広告を『ライフ』『ルック』『ポスト』『プレイボーイ』等の一般雑誌に掲載した。「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」と呼ばれるこの広告は、米国で話題となった。当時『ライフ』誌は、「ホンダに恋をしたアメリカ」というタイトルの文章を掲載するほどであった。こうした広告展開によって、スーパーカブは新しい身近な乗り物であるというイメージが形成された。

 アメリカン・ホンダ・モーターが行ったイメージチェンジは、広告だけではない。独自の現地販売網づくりによっても、イメージチェンジを図った。既存のオートバイ販売店に対しては、油にまみれた薄汚いところという悪いイメージを払しょくするために、店舗改装を積極的に勧めた。併せて、スポーツ用品店やモーターボート店、釣具店などに、ダイレクトメールを送り、新規にオートバイの販売を呼び掛けた。こうした新規の販売店の開拓は、販売網の拡大のみならず、新規販売店によって新しいオートバイのイメージを一般市民に喚起させることで、オートバイ業界全体のイメージアップと活性化を狙っていた。

 スーパーカブを主軸に置いたこのキャンペーンにより、ホンダのオートバイは米国で広く普及し、1965年の販売台数は26万台に達した。アメリカン・ホンダ・モーターによる米国市場開拓によって、ホンダは名実ともに世界のトップメーカーとしての地位を確立したのである。


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